カテゴリー: 考え方

  • 捨て時がわからなくなった、22年使っているダイソーのアルミ鍋の話

    このアルミの鍋は、
    地元の山形を出て、千葉県柏市で1人暮らしを始めた次の日に船橋のダイソーで買ったものだ。

    当時は今みたいに値段が様々ではなく、ほとんど100円だった。

    少しは200円とかもあったかもしれない。

    深く考えたわけでもなく、
    「とりあえず鍋が必要だよな」くらいの気持ちだったと思う。

    それから22年。
    今でも、この鍋を使っている。

    何百食かわからないラーメンを作ってきた

    この鍋で、何百食ラーメンを作ったか分からない。

    仕事で疲れて帰ってきた夜、
    基本金がないから、

    安いよくわからないメーカーの袋ラーメンとご飯。

    炭水化物食べときゃ大丈夫だろうという、二十歳の適当な食生活。

    具なんて無い日も多い。
    今みたいにネギを乗せるようになったのは、だいぶ後になってからだ。

    木の棒みたいな持ち手は、
    いつの間にか割れて外れた。

    でも、鍋そのものは使える。

    焦げるわけでもないし、
    穴が空いているわけでもない。

    妻には「もう捨てたら?」と言われる

    この鍋を見て、
    妻はよく言う。

    「もう捨てたら?」
    「新しいの買えばいいじゃん」

    今ダイソーに同じ鍋はもう売ってないらしい。

    コストの問題だろうか。

    100円鍋を22年使う理由なんて、
    合理的に考えたら無い。

    今なら、もっと軽くて、
    取っ手もしっかりした鍋はいくらでもある。

    傍から見れば捨てたらいいと思うのは当然。

    焦げもシミも残って取れないし。

    でも、
    「まだ使えるし……」
    と、いつも答えてしまう。

    自分でも、
    何に迷っているのかはよく分からない。

    思い入れがあるわけでもないのに

    誤解されそうだけど、
    この鍋に強い思い入れがあるわけじゃない。

    大事に扱ってきたわけでもないし、
    雑に使ってきた自覚もある。

    ただ、
    「壊れていない」
    「普通に使える」

    それだけ。

    だからこそ、
    捨てる理由が見つからない。

    捨て時が分からないまま、時間だけが経った

    気づいたら22年経っていた。

    最初は1人暮らしだったし、
    色々な人との出会いや別れもある中で、

    今の妻と出会い、結婚して子どもが生まれて。

    生活は何度も変わったのに、
    この鍋だけは変わらなかった。

    人生で一番付き合いが長いものになってしまっている。

    別に、ブランド物でもなんでもないものなのに。

    年輪を重ねるじゃないけど、このゆがみや焦げが、知らず知らずに思い入れになっているのかもしれない。

    いつまで使えるんだろう

    この鍋が、
    いつまで使えるのかは分からない。

    来月、底が抜けるかもしれないし、
    あと10年使えてしまうかもしれない。

    妻に言われるたび、
    「そろそろかな」と思うけど、
    結局そのまま棚に戻している。

    捨て時が分からないまま、
    今日もこの鍋でラーメンを作る。

    この鍋を捨てた時、僕は何を思うんだろう。

    それだけの話。

  • ご飯を食べているだけで、時間が進んでいることに気づいた夜

    夕飯の時間のこと。

    子どもたちが生まれたばかりの頃、
    というより、離乳食が始まった頃は、
    毎回スプーンで食べさせていた。

    外食に行けば、
    床もテーブルもぐちゃぐちゃ。

    妻と交代で食べて、
    自分のカレーは冷めて、
    ラーメンはだいたい伸びていた。

    「まぁ、今はこんなもんだよね」
    そう思っていた。


    でも今は違う。

    小学生になった2人は、
    当然のように自分でご飯を食べている。

    長男は、
    自分でインスタントラーメンを作るし、
    リンゴも剥いて食べる。

    いつの間にか、
    「手伝う側」から
    「横で見てる側」になっていた。


    そんなことを考えながら、
    夕飯を食べていた。

    特別なメニューでもない、
    いつものご飯。

    次男が、
    黙々とご飯を掻き込んでいるのを見て、
    ふと、思った。

    「あぁ、成長したな」

    そのまま少し、
    じっと見ていたら。

    次男が顔を上げて、
    一言だけ言った。

    「なに?」


    「いや、別に……」

    それだけ返して、
    そのまま夕飯は続いた。

    何かを話したわけでもないし、
    感動的なやり取りがあったわけでもない。

    ただ、
    自分がいつの間にか
    「大人側」に完全に移っていたことに、
    その一言で気づいただけだった。


    子どもは、
    昨日と同じようにご飯を食べていただけ。

    変わったのは、
    たぶん自分のほうだった。

    こういう何でもない瞬間で、
    時間はちゃんと進んでいる。

    それだけの話。

    「辛いのは今だけ」って言う人がいる。

    たぶん、それは本当なんだと思う。

    でも、
    その「今」はずっと形を変えながら続いていく。

    楽な時期なんて、
    結局なかった気もする。

    それでも、
    こうして成長に気づく瞬間があると、
    過去の自分は、
    ちゃんとそこにいたんだなと思える。

    今日はそれで十分だった。

  • マイクラが得意な次男を見て、「自由が得意な人もいるんだ」と思った話

    次男(小学1年生)は、
    Nintendo Switchでマイクラをやるのが得意だ。

    もちろん最初は、
    操作方法も分からず、
    何をしていいかも分からず、
    イライラしながらやっていた。

    でも、始めてから1年ほど経った今は違う。

    とんでもないスピードでブロックを並べ、
    独創的な家を作っている。

    それがただの箱じゃなくて、
    「実際に住めそうな内装」だったりするから驚く。


    「大人になったら一級建築士になる」

    そんなある日、
    次男がぽつりとこう言った。

    「大人になったら、一級建築士になる」

    正直、びっくりした。

    別に教えたわけでもないし、
    誘導した覚えもない。

    ただ、
    自分で考えて、
    自分で作ってきただけだ。

    勿論、凄い家を作ってることは家族も驚いたし、褒めたりもしたのが効果あったのかもしれないけど。


    僕は、自由が苦手だった

    それを見ていて、
    ふと思った。

    自分が子どもの頃、
    もしマイクラを渡されていたら
    どうだっただろう。

    たぶん、楽しくなかったと思う。

    「自由にやっていいよ」
    と言われると、
    何をしていいか分からなくなるタイプだった。


    ゴールがある方が安心する

    RPGのように、

    • 目的があって
    • ゴールがあって
    • 次に何をすればいいか分かる

    そういうゲームは好きだった。

    でも、

    • 正解が無い
    • ゴールも無い
    • 好きにしていい

    そういう世界は、
    今でも少し苦手かもしれない。

    どうぶつの森とかも、妻はスマホでやっていたけど、何して良いか分からないゲームにはやっぱり魅力を感じない。


    長男は、僕に似ている気がする

    長男を見ていると、
    そこは少し自分に似ている気がする。

    自由度が高いものより、
    「これをやればいい」と決まっている方が安心する。

    それは良い悪いの話じゃない。

    ただ、
    向き不向きの違いだと思っている。

    ただ、長男は僕と違って運動神経がとてつもなく良いので、それぞれ長所があって良かったなと思う。


    自由が得意な人も、ゴールが必要な人もいる

    次男を見ていて思うのは、

    • 自由を楽しめる人もいる
    • ゴールが無いと動けない人もいる

    ということ。

    どちらが上とか、
    どちらが正解とかではない。

    ただ、
    得意な形が違うだけ。


    親として思ったこと

    子どもを見ていて、
    何かを教えようと思ったわけじゃない。

    親として何かを教えたわけじゃない。

    ただ、
    「この子はこういう世界が得意なんだな」
    と知れたのが、少し嬉しかった。

    無理に型に当てはめなくていいし、
    自分と同じじゃなくてもいい。

    そう思えただけで、
    十分だった。


    まとめ

    • マイクラが得意=才能、ではない
    • 自由を楽しめる性質があるだけ
    • ゴールが必要な人も、同じくらい普通

    子どもを見て、
    自分のことを知る。

    そんな瞬間があってもいい。

  • めんどくさがりな人ほど、実は物事が続く理由

    「自分、めんどくさがりなんだよな」

    そう思っている人は多いと思う。
    そして大抵の場合、それは短所として扱われる。

    でも正直に言うと、
    めんどくさがりは、悪い性格じゃない。

    むしろ、
    使い方次第ではかなり強い。


    子どもの頃から、めんどくさがりだった

    夏休みの宿題は、
    最後の数日で一気にやるタイプだった。

    終わらないこともあった。笑

    数日で終わるんだから、来年は最初の数日で終わらせようと決意するも、冬休みの宿題も同じ結果を迎えるし、勿論翌年の夏休みも同じ。

    世間的も当時は自分でも、
    「めんどくさがり=ダメ」
    だと思っていた。

    でも治せない。

    目の前の『楽』を選んでしまうから。


    大人になって気づいたこと

    大人になって分かったのは、
    後回しにした方が、結局めんどくさいという事実。

    • やらない → 気になる
    • 気になる → ストレス
    • ストレス → 余計に動けない

    このループが一番しんどい。


    めんどくさがりは「最短ルート」を探す

    めんどくさがりな人は、
    無意識にこう考えている。

    • どうすれば楽か
    • どうすれば考えなくていいか
    • どうすれば続けなくて済むか

    これって実は、
    最適化思考

    僕はかなりの直感型なので、答えをまず探す。

    多くの人は過程があって、答えに辿り着くのかもしれないけど、僕はまず答えが出る。

    それから、なぜそこに至ったかを考える。

    今でも覚えているのは、小学1年生の時の算数の時間。

    問題の文章から、何算で計算するかを考えなければいけない問題で、僕はすぐに挙手しました。

    先生「これは何算でしょうか?」

    僕「今引き算の授業しているので引き算です」

    先生「そういうことじゃなくてね……」

    というやり取り。

    先生の苦笑いが今でも忘れられない。


    めんどくさがりだから禁煙できた

    その頃、世間的にも喫煙エリアが減り始めて、煙草を吸うにも喫煙所を探さなくてはいけないけど、なかなか無い。

    そうなると探すのがめんどくさくなってくる。

    もちろん家では自由に吸える。

    でも、タバコを吸っていた頃、
    ある時ふと思った。

    「たばこ吸うのがめんどくさい」

    じゃあもう煙草辞めようとなるわけです。笑

    • 買いに行く
    • 火をつける
    • 匂いが残る
    • 加えて、ジッポなのでオイルを入れたりしなきゃいけない。

    全部めんどくさい。

    結果、
    意志の力じゃなく、めんどくささで禁煙できた。

    まぁ、それに加えて、頑張って仕事してもらったお金が灰になって消えてるって思ったら辞めようと思えた。

    今は、火もオイルも要らない Dr.stick を使っている。

    別に健康意識が高いわけじゃない。
    ただ、準備も手入れも要らないから。

    タバコを完全に断つというより、
    「めんどくさい方から自然に離れた」だけ。

    こういう形の方が、
    自分には合っていた。


    続いている習慣は、全部ラクなもの

    今も続いていることは、
    どれも共通点がある。

    • 考えなくていい
    • 判断しなくていい
    • 頑張らなくていい

    逆に、
    「気合」「根性」「意識高め」は
    全部続かなかった。


    めんどくさがりは直さなくていい

    世の中はよく言う。

    • 習慣化が大事
    • 継続が力
    • 毎日コツコツ

    でも、
    めんどくさがりにそれを求めると詰む。

    だからやるべきは逆。

    頑張らなくても続く形に変えること。


    めんどくさがりは、仕組みと相性がいい

    • 定期便
    • ルーティン
    • ワンアクション

    めんどくさがりは、
    仕組み化が完成した瞬間に最強になる。

    だから今も、
    何かを始める時は「どう頑張るか」じゃなく、
    「どう楽に続けるか」から考えている。


    まとめ めんどくさがりは才能だ

    • めんどくさがり=怠けではない
    • 無駄を嫌う性格
    • 最短ルートを探す思考

    直す必要はない。
    使えばいい。


    最後に

    頑張れない自分を責めるより、
    頑張らなくていい形を作る方が早い。

    めんどくさがりは、
    生き方を間違えなければ、
    ちゃんと強い。

  • 理想の父親像を考えたことがなかった僕が、

    範馬勇次郎にだけは憧れた理由


    正直に言うと

    父親になってから10年が経つ(2025年時点)けど、理想の父親像なんて、
    これまで考えたことがなかった。

    自分自身が、
    父親とあまり仲が良くなかったからだと思う。

    仕事でいない日は嬉しかったし、

    いなくなって欲しいとずっと思っていた。

    だから
    「こういう父親になりたい」という像を、
    持たずにここまで来た。

    当時の自分にとって、
    父親は「一緒にいたい存在」ではなかった。

    そう感じていたのは、事実だ。


    初めて憧れた父親像

    そんな僕が、
    初めて「父親としてこうありたい」と思えたのが、
    漫画『範馬刃牙』に出てくる 範馬勇次郎 だった。

    普通に考えれば、
    父親の理想像として名前が挙がるキャラじゃない。

    暴力的で、
    破天荒で、
    人間としてどうなのかと言われがちな存在だ。

    それでも、
    親子喧嘩編を読んでどうしても惹かれてしまった。


    強さの見せ方が違った

    勇次郎の強さは、
    ただ相手をねじ伏せることじゃない。

    マナーや作法を身につけ、
    全力で向かってくる息子・刃牙を、
    逃げずに、真正面から受け止める。

    強い憎しみを抱いているはずの刃牙ですら、
    その姿に、思わず心を動かされてしまう。

    そこにあったのは、
    威圧でも支配でもなく、
    受け止められる余裕だった。

    それに、昨今ではなぁなぁにして甘やかす人も多い中、勇次郎は躾もしっかり行う。

    これは大事。


    強さは、使い方次第で優しさになる

    作中で明かされるのは、
    勇次郎がただ戦う男ではないということ。

    彼は戦いを求めて
    各地の紛争地帯に身を置いてきたが、
    その背後には常に
    守られる側の人間がいた。

    結果として、
    弱い立場の人間を救ってきた存在でもあった。

    強さは、
    振り回せば暴力になる。

    でも、
    使い方を間違えなければ、
    優しさとして機能する。

    そう感じた。


    40代になって思うこと

    今の自分は、
    勇次郎のように強くはない。

    戦えるわけでもないし、
    圧倒できる力もない。

    それでも、
    目指したい在り方は分かる。

    • 逃げない
    • 崩れない
    • 子どもの全力を受け止める

    声を荒げることじゃない。
    支配することでもない。

    佇まいで伝わる強さ。

    40代になった今、
    自分が目指したいのは、
    そういう父親なのかもしれない。


    まとめ

    理想の父親像を
    最初から持っていたわけじゃない。

    でも、
    勇次郎を見て初めて、
    「こういう強さなら、持っていたい」と思えた。

    強さは、
    誇示するものじゃない。

    誰かを守るために、
    静かにそこに在るものだ。


    最後に

    この話に
    正解も教訓もない。

    ただ、
    同じように
    「父親像を考えたことがなかった人」にとって、
    何か引っかかるものがあれば、それでいい。

    うちの子たちは、公園で一緒に遊ぶのが好きみたいです。

    『父親』と遊ぶのが好きなんて、変わった子たちだなぁと他人事のように思っているけど、理想の父親に近づけているからかもしれない。