『多様性』について思う事

『多様性』ってなんだろうね?

いつからか言われるようになった『多様性』という言葉。

LGBTQ(その先は覚えてないけどあったよね)。

ヴィーガンは肉を食べる人に対して理解を示すように攻撃的な活動をしたりというニュースも見る。

認め合おうって話じゃなく、従わせようとしたら話は変わる。

本来、『多様性』という言葉は色んな人がいてもいいよね、少数派がいてもいいよね?拒絶しないで理解してあげようねって話だと思う。

ところが、近年の流れを見ると、マイノリティな自分達を理解しろ!!という雰囲気すら感じる。

これには違和感しか無くてね。

『多様性』を受け入れられない人も『多様性』として認めるべきでは?

そうじゃないんですかね?

性別がその日の気分で男にも女にもなります。

見た目は男だけど、自任は女です。

そういう人がいるのは別にいいんですよ。

『理解できない』『結局男なの?女なの?』

『いや、だから定義するものじゃない』

『でもどっちかでしょ?』

というようなやりとりも見たことはある。

結局ね、人の考え方なんて変わらないので、平行線をたどるままなの。

でも、『理解できない』という人を認めるのも『多様性』でしょう?とは思う。

現代人が目指している社会

これ思うんだけど、要するに一人一人が縛られずに生きようという事だよね。

他人に認められなかろうと、色々な人がいるよねって思えば別にどうでもよくない?

上に書いた、『その日の気分で男か女か決める』みたいな人にもね、『結局どっちなの?』じゃなくて、『そうなんだ』で良いと思う。

『理解し合う』と『無関心』は紙一重という事。

僕はね、別に色んな人がいていいと思う。

世界に60億人くらいいる中で、カテゴライズ出来ない人もそりゃあいるでしょう。

人に危害を加えてまで理解しろ!って言う人なら、距離を取って『無関心』になるのが一番。

肉食わない?別に食わなきゃいいじゃん。

人に強要するんじゃないよ。

あなたはあなたの考えがあって、そうしているだけの話でしょう?

という考えです。

僕は。

仕事にも言える。

例えば、どこかの記事で話したけど、僕は常に全力派。

でも他の人はその日のノルマ分やればいい派。

やれよ!とは別に強制しない(ノルマ分すら終わらなくてブチ切れたわけだけど)。

そういう考えの人なんだなって、思うと楽になる。

まぁ、子どもの頃から基本無関心なので、今もそれは変わってないのかもしれない。

基本、『どうでもいい』思考だから。

これを読んだあなたも、もっと人に無関心でいいんじゃないかな。

全力で理解してあげなきゃいけない人なんて、片手で足りるくらいしかいないでしょ。

人はそれぞれの道を歩いていて、曲がりくねった時に誰かの道と重なる。

その誰かと重なった時に理解して、一緒に楽しく過ごして、時が経てばまた自分の道に戻るってだけの話。

例えばライヴなんかもそう。

東京メルヘン倶楽部のメンバー、客席、それら100ちょっとの道が重なって、約2時間同じ時間を過ごして、終わればまた道が分かれていく。

人生ってそんなもんだと思ってる。

小説も書いてます→BL4GS作品集

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